愛され願望を捨てて、愛す側になってみる【恋愛にルールはいらない #15】

昔から「愛され○○」という表現はありました。すこし下火になった感はあるものの、いまでもたしかに存在する言葉です。愛されヘア・愛されメイク・愛されファッション・愛され会話・愛され女子……。愛され、愛されっていい加減、疲れるんですけど……。そんなに愛されたいですか? 愛されていないと、人生回りませんか? と疑問に感じてしまうのは、はたして私だけでしょうか。
そもそも、愛されとは「受け手」でいること。愛す側に対し、愛を受け取る側。つまりは、愛してくれる人がいなければ、本当の意味での「愛され」は成立しません。
厳密に言うと、パートナーがいないと愛されることにはならないし、たとえパートナーがいたとしてもパートナーの気持ちが移ろっていたり、パートナーの心が離れかけていたりすると愛されることにはなりません。


「愛され」を求めすぎるのは、自分の運命を他人にゆだねること

愛されるために、自分の外見や内面諸々を磨いて、並々ならぬ努力を重ねたとします。でも、がんばりが実を結ぶとは限りません。「この人を愛すかどうか」という判断は、相手にゆだねられていて、不安定なことでもあります。愛されたい側が絶対にコントロールできないことなんです。
自分は彼から愛されている? ひょっとして愛されていない? そうやって考えをめぐらせ、気持ちがゆれ動くと、不安にかられる一方。彼から愛されたい。愛されるためにはどうすればいい? じっくり考えて、努力したところで愛されなければ、落ち込んだり、自信を喪失したりするだけ。
ちらも、相手に手綱を握られている状態。苦しいと思います。相手に身をゆだねていて、愛すかどうか、という判断をまかせているわけですから。見方によっては、愛す側が上、愛される側が下というような、どこか悲しい上下関係すらあるように思えます。

「愛す側」に立ってみませんか

これが、自分が愛す側になると、景色や環境は一変します。愛す、というのは自らが主体的に選択できる行動。パートナーがいなくても、愛す対象を見つけることはできるし、自ら何かを愛すぶんには、不安を感じたり、自信をなくしたりすることにもなりません。
自分が何かを主体的に、意思を持って愛す、というのは、広義での「応援」のようなものだと考えています。私が思う応援とは、対象に興味を持って、「好き」「見ていたい」というポジティブな感情を抱き、穏やかでフラットな愛情を感じ、さらなる飛躍、成長を望み、見守る、ということ。たとえ不調な時期があったとしても、見捨てることなく近くにいて、再び好調な時期が来ることを静かに祈る、ということも含みます。
愛す、つまりは何かを応援する、ということなら、自分ひとりでいかようにもできる。さらに、その先には穏やかで、落ち着いた心境が待っています。

愛す人の元には人が集まってくる

そうやって自ら愛すことができるようになり、愛され願望を捨てたとき、どんな形であれ、愛はめぐりめぐって手元にやってくるものです。愛す、というのは愛を与える行為。進んで愛を与える人から、愛はうばわれない。この世に神様がいるかどうかはわかりませんが、「誰かが見ている」のは確かでしょう。
愛されたい人がたくさんいる一方で、愛す人は稀少です。だから特別な存在感や魅力があり、人が周りに集まってきます。なかには愛されたい人もいますが、同じ輝きにひかれるようにして、愛す人もやってきます。愛す人はひとりぼっちにならない。だから、「愛す側に立つことを選ぶ生き方」もあるのだと知ってほしいんです。とくに「愛され」を意識しすぎて、疲れてしまった人たちに。
無理に「愛され」のわくに自分をはめ込み、「愛され」のテンプレートを踏襲しなくていい。愛されない、とがっかりしたり、失望したりしなくていい。自由気ままに何かを愛し、満たされる人生もあります。愛することで得られる幸福感や喜びは、愛す側に立った人しか知り得ないこと。身近な何かを愛すレッスンから、始めてみてください。

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2017.10.22

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Written by 池田 園子(いけだ そのこ)

岡山県出身。中央大学法学部卒業後、楽天、リアルワールドを経てフリー編集者/ライターに。関心のあるテーマは女性の生き方や働き方、性、日本の家族制度など。結婚・離婚を一度経験。11月14日に『はたらく人の結婚しない生き方』を発売。 写真撮影ご協力:青山エリュシオンハウス 撮影者:福谷 真理子